執着を手放し、愛情を深める方法とは: 心の成長への第一歩

愛情と執着の違いを考える

愛情と執着の違いを、誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか。僕もその「一度」に遭遇したのは、失恋した友人との夜だった。

その日、彼はまるで心に穴が開いたような顔をしていた。「別れたばかりだけど、彼女には幸せになってほしいんだ」と彼が言ったとき、僕はハッとした。だって、そんなふうに思える自分がいるかと問われたら、自信がなかったからだ。

そもそも、自分が誰かの「幸せを願う」って、本当に簡単なことじゃない。少なくとも僕は、彼女が新しい恋人と笑顔で過ごす姿を想像して、心から拍手を送れる自分にはなれていなかった。それどころか、「俺のことを選ばなかったことを後悔してほしい」なんて、情けない感情に支配されていたことに気づいてしまったのだ。

その夜を境に、「愛情」と「執着」について深く考え始めることになった。そして気づいたのは、二つの間にある違いは、とても微妙で、だけど人生を大きく左右するものだということだった。



愛情は手放す勇気から生まれる

心理学者エーリッヒ・フロムの名著『愛するということ』には、「愛情は成長を促すものであり、執着は所有欲に基づくものだ」と書かれている。これは、言葉では理解できても、実際に行動に移すのはかなり難しい。だって、成長を促すどころか、「手放す」という行為そのものが、僕たちにとって怖いからだ。

手放すことで、相手が自分の人生から遠ざかっていく。それを恐れるのは、ごく自然なことだと思う。でも、その恐れの中で、愛情は逆説的に輝き出すのかもしれない。なぜなら、愛情とは「自分の手を離れても、相手が幸せであることを喜べる心」だからだ。

これを知ったとき、自分の中の執着心が少しだけ軽くなったような気がした。いや、それでも完全には消えない。だけど、愛情とは相手をコントロールすることではなく、相手が自分とは違う人生を歩むことを許すことなのだ、と知っただけで、僕の中にある歪な何かがほぐれていくのを感じた。

執着の根っこにある「不足感」

執着がどこから生まれるのか。それを考えると、多くの場合は「自己不足感」から来ているのではないかと思う。自己肯定感が低いとき、僕たちは他者を通じて自分を満たそうとする。相手がいないと自分は価値のない存在だと思い込むからこそ、相手を必死でつなぎとめようとするのだ。

昔の僕も、まさにそんな人間だった。恋人ができるたびに「自分がいないと彼女はダメになる」と勝手に思い込んで、相手の自由を侵害するような言動をしてしまったことがある。それは、表向きには「愛情」と見えるかもしれないけど、実際にはただの恐れや不安が動かしていた行動だった。

つまり、執着は自分の未熟さが作り出す幻影のようなものだ。それに気づくことができれば、少しずつでも手放す準備ができる。執着に縛られることで、結局傷つくのは自分なのだから。

本当の愛情は相手の自由を守ること

友人から聞いた、こんな言葉がある。「愛って、相手が自由でいられることを邪魔しないことだよね」。その言葉は、僕の心に不思議とスッと入ってきた。

愛情と執着を混同していた頃の僕は、相手の幸せを「自分といること」だけに限定していた。でも、もし本当に誰かを大切に思うのなら、相手が自由に選んだ幸せを受け入れる覚悟が必要なのだ。

たとえそれが、自分が関与しない人生の一コマだったとしても。

例えば、長い付き合いのある友人が海外での生活を選んだとき、その選択を心から祝福するのが愛情だと思う。その一方で、「どうして自分を置いていくんだ」と怒りや悲しみに囚われるのは執着の表れだ。相手の選択を自分の感情で縛ろうとするのではなく、その人の自由を尊重できるかどうかが、愛情の本質を問うポイントになるのではないだろうか。

愛情と執着の違いを肝に銘じて生きる

この先も、きっと僕は愛情と執着の境目で迷うことがあるだろう。けれど、心のどこかに「相手の幸せは自分の関与を超えたところにもある」という考えを持ち続けていたいと思う。

たとえば恋愛であれ、友情であれ、家族のつながりであれ、自分の存在が相手の幸せを左右すると思い込むのではなく、その人自身が自由に描いた未来を祝福できる自分でありたい。それができる人はきっと、自分の人生にも愛情を持って向き合える人なのだと思う。

愛情とは、手放すことで輝くもの。執着とは、縛りつけることで濁るもの。このシンプルだけれども深い違いを、これからも肝に銘じて生きていこうと思う。そして、自分も誰かも、自由でいられる関係を大切にしていきたい。


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