誠実さに縛られる日々
「誠実であることは正しいこと」――これは小さい頃からずっと僕の中にある揺るがない価値観でした。親に叱られたときも、先生にほめられたときも、そして社会に出てからも、「誠実さは人としての基本」だと思い込んできました。
でも、現実の僕は誠実からほど遠い。朝の電車で座っていて高齢の方が目の前にいてもスマホを見て知らぬふり、仕事が山積みのときには「このくらいなら誰も気づかないだろう」と、こっそりサボってしてしまうことだってあります。友達から頼まれた相談に対しても、「自分も忙しいのに……」と思いながら、適当に相槌を打って早く終わらせたこともありました。
これを思い返すたびに、自分の中の「誠実でありたい自分」と「ズルをする自分」がぶつかり合うのです。そして、そのたびに自己嫌悪の渦に飲み込まれます。
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「理想の自分」と「現実の自分」のギャップ
あるとき、心のモヤモヤを解決したくて心理学の本を読みました。そこには「自己受容」の大切さが書かれていました。著者は、「人は『理想の自分』を追い求めるが、それが現実の自分との間にギャップを生む。自己受容はそのギャップを埋める鍵だ」と説明していました。
なるほど、と頭では思いました。でも、現実はどうでしょう? ギャップを埋めるなんて簡単にはいきません。たとえば、こんなエピソードがあります。
以前、仕事でミスをしたときのことです。本当は僕の不注意が原因だったのに、会議で上司に責められるのが怖くて、口をついて出た言葉は「先方の確認ミスが大きかったようです」でした。家に帰ってから自己嫌悪で苦しくなり、「なんであのとき正直に謝れなかったんだ」と思うばかり。でも、翌日からも仕事を続けるには、あのときの「ズル」が必要だったのです。
そんな自分をどうやって受け入れるのか? 本には答えが載っていませんでした。
誠実さの「現実的な」定義
ある友人との会話が、この問いに少し答えをくれました。彼はこんな話をしてくれたんです。
「仕事でね、同僚が僕のミスをカバーしてくれたことがあったんだ。僕が『ごめん、ありがとう』って言ったら、その同僚が『いや、みんなズルしてるよ。お互い様だから気にすんな』って笑ってくれたんだよね。そのとき、ああ、誠実って完璧であることじゃないんだなって思ったよ。」
その瞬間、僕の中の何かが少し軽くなった気がしました。誠実であることは、ズルをしないことでも、理想の自分に近づくことでもなく、結局は「正直に人と向き合おうとする努力」なんじゃないか、と。自分のズルさを認めて、そこから少しずつ修正していく。それもまた、誠実の形なのかもしれないと。
ズルい自分と上手に付き合う方法
では、どうやってズルい自分を受け入れ、向き合っていけばいいのでしょうか? 僕なりに試している方法をいくつか共有します。
1. ズルを「意識」する
ズルをしたとき、まずは自分に問いかけます。「なぜズルをしたのか?」と。その背景には、自分を守りたい気持ちや、限界を超えたストレスが隠れていることが多いです。ズルを認めることは恥ずかしいけれど、気づくだけでも成長だと思います。
2. 完璧を目指さない
心理学の研究によれば、自己受容が高い人は「完璧主義」から解放されているそうです。僕たちはどこかで、「100%正しい選択をしなければ」と思い込みがちです。でも、そもそも誰もが不完全な人間。70点くらいで満足していいんだと自分に言い聞かせます。
3. ズルを埋め合わせる
ズルをしてしまったとき、次は誰かに少し優しくするように心がけています。たとえば、前に電車の席に座ったときも、降りるときには誰かに席を譲る。それだけで「自分、完全にダメじゃないな」と思えるから不思議です。
最後に:誠実で「ありたい」気持ちを忘れずに
僕たちは誠実でありたいと願いながら、ズルをしてしまう生き物です。大事なのは、そのズルを隠そうとするのではなく、正直に向き合うこと。そして、それを少しずつでも修正していこうと努力することだと思います。
誠実さとは、完璧な行動や間違いのない選択ではなく、「誠実でありたい」と願い続けるその気持ちそのもの。ズルい自分を認めながらも、少しずつ理想の自分に近づこうとする――そんな不器用な歩みこそ、人間らしい美しさなんじゃないかと思うのです。
明日もきっとズルをしてしまう。でも、そのズルを見逃さずに、ほんの少しだけ誠実であろうとする。それで十分だと思いませんか?
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