「なんでそんなに怒ってるの?」SNSの罵詈雑言の正体 炎上を求める人々の心理とは?

炎上を求める人々の心理とは?

SNSにあふれる怒りの正体

最近、SNSを眺めていると、やたらと目につくのが誰かを攻撃するような過激な投稿だ。私自身、SNSは仕事や情報収集のツールとして使うが、タイムラインに流れてくる罵詈雑言を見るたびに、心が重くなることがある。
「見なければいい」と言われるかもしれないが、アルゴリズムのせいなのか、それとも社会の注目が集まりやすいからなのか、否応なく目に入ってしまう。そして、それを見た瞬間、「なぜこんなに怒っているんだろう?」と考えてしまう。

そんな疑問にヒントを与えてくれたのが、國分功一郎の著書『暇と退屈の倫理学』だ。この本に書かれていた一節が今のSNSの現状にぴったり当てはまると思った。

「人間は退屈に耐えることができない。そのため、事件や何らかの出来事を求めてしまう。」

つまり、多くの人が退屈を埋めるために事件を求めてしまう。その結果、何かを攻撃することで手軽な「刺激」を得ようとしているのではないか。

國分は、暇や退屈を埋めるために人が「事件」を欲することを指摘している。これをSNSに置き換えると、多くの人が日常の退屈さや同じような毎日を忘れるために、何か刺激的な「事件」を探し、それを消費しようとしているのだと気づかされる。


暇と退屈の倫理学

【2022年 東大・京大で1番読まれた本】
2022年1月~12月文庫ランキング(全国大学生協連調べ) 
【25万部突破のロングセラー】

暇とは何か。人間はいつから退屈しているのだろうか。
答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。 著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう。


退屈が生む「炎上」のサイクル

同じような毎日に耐えられなくなった人々が、退屈を埋めるために炎上を求めている――これは突飛な話ではない。SNSを開けば毎日違う誰かがターゲットにされ、袋叩きにされる。その現象を眺めながら、「これが人間の本性なのか?」と落ち込んでしまうこともある。

平和な時代を生きている僕たちは、戦争や直接的な危機が少ない代わりに、日常の中で「事件」を求めがちだ。その結果、誰かの失敗や不祥事、たった一言のミスを見つけては大騒ぎする風潮が生まれている。

暇と退屈とは

國分の議論では、「暇」と「退屈」は一見似ているが、微妙に異なる感情だとされている。暇は、ただ時間が余っている状態であり、一方で退屈は、暇でありながら何も満たされない、心の空洞を感じる状態だ。この退屈こそが人を不安にさせ、何かしらの刺激を求める原因になる。

SNSで誰かを攻撃する投稿や、それに対する反論の応酬は、まさにこの退屈から生まれているのではないだろうか。國分が言うように、退屈は人間が最も耐えがたい感情の一つだ。そのため、多くの人が「誰かを叩く」という簡単な行動で退屈を埋めようとする。退屈を解消するための「事件」が、SNSの炎上によって提供されるのだ。

それぞれに家族がいるという視点

でも、ちょっと考えてみてほしい。SNSで槍玉にあげられる人たちも、誰かの家族であり、大切な人である。彼らにも人生があり、苦労があり、悩みがある。怒りの投稿を書いている人たち自身にも、家族や友人がいるはずだ。

ある時、私自身もSNSで批判された経験がある。内容はささいなことだったけれど、「こんなことでこんなに怒るんだ」と驚いた記憶がある。でも、その時ふと思った。
「この怒りを投稿している人も、もしかしたらものすごく大変な状況にいるのかもしれない。退屈だけじゃなく、孤独や不安があるのかもしれない」と。

「暇」と「退屈」に向き合う方法

『暇と退屈の倫理学』の中で、國分は「暇」をただの無意味な時間と捉えず、それを自己と向き合う機会にするべきだと説いている。國分は哲学的な考察の中で、暇が本来持つ可能性についてこう述べている。

「暇とは、自己を深く見つめ、世界を考える時間である。」

また哲学者たちも、この感情にどう向き合うかを長年研究してきた。

例えば、セネカはこう言っている。

「幸せとは、人生を暇に感じずに生きることだ。」

つまり、暇や退屈は、何もしない時間そのものが悪いのではなく、その時間をどう使うかに問題があるということだ。SNSで怒りを消費するのではなく、暇な時間を自分のために使うことができるようになる。例えば、本を読んだり、何か新しいことを学んだり、あるいは散歩をしながら考え事をする。こうした行為は、退屈ではなく充実感をもたらしてくれる。

心を癒すためにできること

SNSが抱える問題は、それが退屈を解消するための一時的な刺激として機能してしまう点にある。でも、SNSはあくまでツールであり、その使い方は自分次第だ。國分の議論を踏まえると、僕たちは「暇」と「退屈」を分けて考えるべきだと思う。SNSで怒りや事件を追い求める行動は、一見暇つぶしのように見えるが、実際には退屈を埋めるだけの短期的な行為だ。

私自身、心が疲れた時にはSNSを少し離れるようにしている。これは「逃げ」ではなく、「自分を守るための選択」だと思っている。そして、代わりに本を読んだり、映画を観たり、友人と会って話したりする。特に、映画や本は、他人の人生を疑似体験させてくれる貴重な時間だ。そこにはSNSにはない「深さ」がある。

また、自分の心が少し軽くなると、SNSを見ても冷静に考えられるようになる。たとえば、誰かを攻撃する投稿を見た時に、「この人は何に怒っているんだろう?」と相手の背景を想像する余裕が生まれる。

まとめ:生まれてきた意味を思い出そう

私は、SNSの過激な雰囲気が嫌いだ。でも、それ以上に嫌いなのは、それに巻き込まれてしまう自分自身だ。だからこそ、自分を守りながら、「心が疲弊している自分」を見つめ直すことが大切だと思う。

SNSに流れる罵詈雑言を見るたびに、「せっかく生まれてきたのに」と考えてしまう。みんな、それぞれの人生があり、それぞれの物語がある。どうせなら、その物語を大切にしながら、もう少し優しく生きていけたらいいなと思う。

「事件」を求めるのではなく、「物語」を楽しむ。そんな心の余裕を持つことで、SNSとの付き合い方も変わるのではないだろうか。


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